8月20日、岩手県遠野市。
関東・東北・北海道に暴風雨をもたらした台風7号は数日前に去ったが、朝から小雨が降ったり止んだりで、青空はまだ見えなかった。
遠野は50年近くホップ栽培を続けてきた日本有数のホップ生産地。しかし、その生産量は年々減ってきている。現在は最盛期の4分の1ほどに生産量が落ち込み、「危機」といってもいい状況。その現状を打開するために、遠野市はキリンビールと協働して「Tono Beer Experience」というビールによる街づくりプロジェクトを進めている。
この日は、そのプロジェクトの一環である「遠野ビアツーリズム」というホップ収穫体験ツアーの一行が、遠野にやってくることになっていた。このツアーの一部に同行したのが、日本ビアジャーナリスト協会代表の藤原ヒロユキ。ツアーの合間を縫って、「ホップ博士」とも言われる村上敦司さん(キリン株式会社 酒類技術研究所 主幹研究員)に、ホップについて話を聞いた。
気候に左右されるホップづくり
藤原ヒロユキ(以下、藤原)遠野のホップ畑にはよく来られているんでしょうか?
村上敦司(以下、村上)だいたい月に1回のペースで、収穫時期になると頻繁に来ています。前回来たのは8月上旬ですが、それに比べてだいぶ成長していますね。
藤原台風の影響があったという話を聞いています。
村上枝ごと茶色くなっている部分ですね。枝が折れて枯れてしまっています。この畝は畑の内側のほうにあるので、これでも風の影響をあまり受けていないですね。外側が一番風の被害を受けるんです。
べと病になっているものもありますね。べと病というのはカビの病気です。湿度と温度が高いとなりやすいんですが、畑の中のほうは風が通らないので湿度が高くなります。なのでべと病が出やすい。でも、強風の被害はまぬがれる。一方で、外側は風の被害が出るけど、風が通りやすいので湿度が高くならず、病気にはなりにくいんです。
藤原気候の影響が大きいと思いますが、豊作と不作の年の違いはどんなところにあるんでしょうか。
村上成長の過程で花の数がたくさんあったほうが、収量は高くなるんです。ゆっくりと成長して、枝分かれが多くできるようになると、花も多く付きます。気温が高くなってどんどん成長してしまうと、枝分かれと枝分かれの間が間延びしてしまうんですね。間延びせずに、ゆっくり成長して節が増えると花の数が増えます。つまり、6、7月はなるべく低温、7月後半から8月にかけて成熟しているときに気温が上がって日光をたくさん浴びる、という気候が理想です。
藤原成長は気温の問題で、それ以外に人間の力ではどうにもならないんでしょうか。
村上どうにもならないですね。肥料のやり方で少しはコントロールできますが、基本的には気候が重要です。
遠野と日本のホップ栽培の特徴は
藤原ホップ栽培も50年以上の長い歴史がありますが、遠野はどんな特徴があるのでしょうか。
村上標高が少し高くて、新幹線の駅がある新花巻よりも桜の開花が1週間くらい遅れるんです。それくらい涼しいんですね。ホップ栽培にとっては有利なはず。
藤原同じホップでも栽培している地域で違いは出てくるんですか?
村上基本的にないとは思っていますが、何かしらあるはずです。土の質が違ったりしますから。例えば、砂地で栽培すると肥料が抜けやすいので、成長のプロセスが違ってきます。とはいえ、農家の人たちがなんとか一生懸命改良してくれるので、最終的には違いはないと思います。
藤原海外と日本の農場で違いはあるのでしょうか。
村上日本の場合は、ホップ農地の面積が大きくできないんです。大きくしようと思ったら平地で大規模にやらないといけない。アメリカなんて一畝で何キロもありますからね。ただ、日本ではそういった土地ではお米を作るんです。お米が作れないようなところで、ホップとかタバコとかリンゴとかを作るんですね。
そうなると、作れる場所は山間地になりますから、一枚の大きな畑は無理。あちこちに細切れの畑が作られます。大きな畑は収穫は一度にできるけど、小さな畑はひとつずつやるので全然効率が違ってくるんです。これは日本の農業の縮図かもしれませんね。
遠野で栽培している「キリン2号」と「かいこがね」
藤原ここではどんな品種を栽培しているのでしょうか。
村上「キリン2号」という品種です。「信州早生」の系統で、収量のいいものをキリン2号として栽培しています。高さ13メートルくらいまで伸びるんですが、ここのホップの棚の高さが5.5メートル。花は上の方にいっぱい花が付くので、蔓の下部を下げて、上部を5.5mの高さにフィットさせるんです。このつる下げという作業は、世界でもキリン2号と「かいこがね」しかやっていません。
藤原かいこがねはどんな品種なのですか。
村上かいこがねは、山梨県で栽培していたキリン2号の突然変異です。最初は毬花が黄色で、収穫時期には緑になってキリン2号と見分けがつかなくなります。葉緑体が足りないため光合成が弱まるので、ゆっくり成長するんです。なので、暖かいところには適した品種ですね。成長がゆっくりなので、かいこがねのほうがたくさん花がつきます。
藤原キリンビールで使用しているホップのうち、遠野のホップはどれくらいの割合を占めるんでしょうか。
村上キリンビールで使用しているホップのうち、国産のホップの割合が約9%。その4分の1が遠野なので、約2%です。
藤原その遠野のホップの銘柄が、キリン2号とかいこがねということですね。
村上キリン2号とかいこがねを合わせて「いぶき」というブランド名になります。チェコの「ザーツ」もそうですが、3種類のホップが混在していて、ブランドとしてはチェコのザーツ。スロベニアの「スーパーシチリアン」も3種類のホップでひとつのブランドになっています。
生ホップのメリットとデメリット
藤原「一番搾り とれたてホップ」ではとれたての生ホップを使っていますが、生ホップはどんな特徴があるのでしょうか。ペレットとはどう違うのでしょうか。
村上乾燥の有無で全然違います。乾燥は単に水分が飛ぶだけではなくて、いろいろな化学反応がおきるんです。まず、香りが飛びます。
藤原熱が入るからですか。
村上はい、60度の熱風で乾燥させます。なので、どうしても香りが飛びやすい。さらに、酸化反応が起こります。例えて言うなら、フレッシュなぶどうと干しぶどうの違い。干しぶどうには干しぶどうの良さがありますが、フレッシュなぶどうのフレッシュ感はありませんよね。それと同じで、生ホップの良さである、みずみずしく青々しい香りが飛んで、枯れ草感が出てしまうんです。
藤原生ホップにデメリットはあるのでしょうか。
村上コストがかかることですね。インフラを変えないといけないんです。配送にも冷凍車を使いますし、かさも増します。そこにお金がかかるんです。
香りが楽しめる文化に
藤原キリンビールではホップの品種改良も行っていますが、その方向性はどうやって決めるのでしょうか。
村上以前は、α酸を高める方向でした。α酸の数値が高ければ高いほど、ひとつのホップからたくさんのビールが造れるので、コストダウンになります。それが、香りを育種しなくてはいけない、という方向性に変わっていったんですね。ただ、どう改良したらいいかということはやってみないとわからない。アメリカでもドイツでもそうです。というのも、香りを決める成分は何百種類も入り乱れているんです。わかっていない成分もたくさんあります。それらがたくさんあるというだけでなく、複雑にからみあっているので、新しい香りの組み合わせは天文学的な数字になりますね。
藤原逆に言うと、可能性としてはいろいろな香りが出せるかもしれない、ということですね。
村上そうですね。特にアメリカでは、毎年2、3品種ずつ新しい品種が出てきています。
藤原キリンビールでも香りを重視する傾向になっているのでしょうか。
村上そうですね。「一番搾り とれたてホップ」は最初に私が開発したんですが、生ホップを使うとなったら「正気か?」と言われたんです。理由はふたつあって、ひとつはコストがかかるということ。もうひとつは、開発していた当時(1999年頃)、香りの強いビールはひとつもなかったんです。「ホップ香」ではなく「ホップ臭」と言われていたほどです。でも、造って飲んでみたらびっくりするくらいおいしかった。
そこから、「一番搾り とれたてホップ」が発売されると、他社からも香りの強いビールが出て、グランドキリンも出て。そして、クラフトビールでも香りの華やかなビールが出てきています。ビールの文化に香りの文化が花咲いて、いろいろなバリエーションが出てきたんです。これだけビールが楽しめるようになったというのは、やっぱり香りの文化があってこそだと思いますね。