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コラム

日本産ホップの歴史を拓いたトーマス・アンチセルの足跡をたどる

およそ150年前、明治政府は「北海道に培養すべきものはホップ草なり」という提案を受けました。この言葉を残した人物、トーマス・アンチセルがたどった北海道視察の足跡を追います。

注:記事中の日付は新暦で表しています。地名は、当時の記録を元に、可能なものは現在の地名表記に改めました。

(トップ画像出典:National Library of Medicine)

トーマス・アンチセルの来日

トーマス・アンチセルの肖像写真

トーマス・アンチセル(出典:National Library of Medicine)

トーマス・アンチセル(1817〜1893)はアイルランドに生まれました。その後アメリカへ渡り、地質学、植物学、化学などを学び、1869年からは農業大学で化学の教授を務めます。

アンチセルが農業大学にいた頃、明治政府は北海道の開拓に力を入れていました。明治4年(1871年)、アメリカ農務省長官だったホーレス・ケプロンを北海道開拓使の顧問として招聘し、アンチセルもこのときケプロンと共に、いわゆる御雇い外国人のひとりとして来日しました。

北海道開拓を主導する役割を担うケプロンは、最初に現地の状況を詳しく把握しようとします。まず北海道南部の函館から札幌までの地域を視察するため、アンチセルと、同様に御雇い外国人として来日した A・G・ワーフィールドの両名を北海道に派遣しました。その足取りを追ってみましょう。

男性が五名写ったモノクロ写真。

左から二人目がケプロン。真ん中に立っているのがアンチセル。その右隣がワーフィールド。(出典:北海道大学附属図書館 北方資料データベース)

1871年10月7日、函館から視察を開始

10月7日:函館→下湯の川→銭亀沢→石崎→汐首
10月8日:汐首→戸井→恵山→根多内
10月9日:根多内→椴法華→尾札部→臼尻
10月10日:臼尻(滞在)
10月11日:臼尻→常呂→鹿部

金森赤レンガ倉庫。レンガ造りの倉庫が並んでいる。

函館の金森赤レンガ倉庫

アンチセルたちは、1871年(明治4年)10月7日に函館を出発します。まず東へと向かう道筋を取り、現在の函館市椴法華地区にあたる地域を目指しました。そこから海沿いを北上し、鹿部にたどり着きます。ワーフィールドのレポートには、「Sconi」でアンチセルと分かれて別のルートを取ったと書かれています。レポートの日本語訳には、「Sconi」の場所は不詳との訳注がありますが、旅程から推測すると、両者が別れたのは鹿部のあたりだと考えられます。以降、ワーフィールドは海路を経て室蘭回りルートを、アンチセルは陸路で小樽回りルートをとり、北海道南部の視察を続けます。

当時の先進的農場、七重官園の視察

10月12日:鹿部→軍川→大野
10月13日:大野↔市渡(往復)

モノクロ写真。建物の前に牛を引く人、馬を引く人がいる。

七重官園(出典:北海道大学附属図書館 北方資料データベース)

この頃、開拓使は北海道における農業の近代化を目指しており、明治2年(1870年)に現在の七飯町に試験農場を開きました。当時、七飯は七重とも表記されたので、この農場は七重官園と呼ばれました。アンチセルもこの農場を訪れており、報告書に「その地野の斜なる所に位するの以て水利に宜し且つ南西に面するを以て日光及び暖気を受ること多し」と書き残しています。アンチセルは、この地域の気象条件とあわせて、この農場で栽培されていた農作物も記録していますが、そこにホップの名前はありませんでした。

木古内から松前半島を横断し江差へ

10月14日:大野→富河→当別
10月15日:当別→札苅→木古内
10月16日:木古内↔尻内(往復)
10月17日:木古内(滞在)
10月18日:木古内→稲穂峠→床部
10月19日:床部→北村→江差

七飯を出発したアンチセルは、南下して木古内へと向かいますが、10月にも関わらず暴風雪に襲われ、足止めを余儀なくされました。近年、北海道南部で10月に雪が降ることは稀なので、この年はかなり寒かったのかもしれません。その後も、場所によりアンチセルにとって厳しい道のりもあったようで、馬や牛などの移動手段を利用した記録が残されています。一行は木古内から峠を越え、日本海側の江差へと出ました。

資源開発のための鉱山視察

10月20日:江差→姥神→泊
10月21日:泊→相沼
10月22日:泊川→遊楽部
10月23日:遊楽部(滞在)
10月24日:遊楽部↔ナカキヤ(往復)
10月25日:遊楽部→山越内
10月26日:遊楽部→黒岩
10月27日:黒岩(滞在)
10月28日:黒岩→国縫→利別
10月29日:利別(滞在)
10月30日:利別→国縫→長万部
10月31日:長万部(滞在)
11月1日:長万部→二股→黒松内
11月2日:黒松内→歌棄→磯谷
11月3日:磯谷→雷電温泉→岩内
11月4日:岩内↔茅沼炭鉱(往復)

アンチセルの視察の目的のひとつは、鉱山資源を開発するための地質調査でした。記された旅程によると、遊楽部(ユーラップ)鉱山、ピリカ鉱山、茅沼炭鉱と、少なくとも3ヶ所の鉱山に立ち寄ったようです。

遊楽部(ユーラップ)鉱山

遊楽部鉱山は、現在の熊石と八雲を結ぶ国道277号の半ばから南へ入った山中に位置しました。鉛川鉱山や八雲鉱山ともよばれ、鉱山街と共に昭和まで残りました。かつて町の温泉として賑わった場所は、現在は宿泊施設となっていますが、町や坑道の大部分は自然へと還っています。アンチセルはこの鉱山での銀の産出について言及していました。旅程では、10月22日から25日にかけて、「遊楽部」と記録された日に立ち寄ったものと考えられます。

秋の山の様子。吊り橋がある。

遊楽部鉱山の跡地周辺の様子

ピリカ鉱山

次に立ち寄ったピリカ鉱山は、現在の美利河ダム付近、後志利別川の流域にあった鉱山です。この地域では昭和期にマンガンが採掘されていましたが、江戸時代から金鉱山としても知られており、アンチセルも後志利別川から国縫にかけての砂金採掘について見解を書き残しています。旅程によると、利別には10月28日から2日間滞在しています。

手前にダム湖、奥に山並みが写っている。

現在のピリカ湖の様子

茅沼炭鉱

茅沼炭鉱は岩内の近く、現在の泊村にあった炭鉱です。江戸時代末に発見され、当時すでに盛んに採掘されていました。日本で最初の鉄道が新橋〜横浜間に開業するのに先駆けて、明治2年(1869年)には石炭運搬用のレールが敷設されており、当時では最先端の技術を導入した鉱山でした。アンチセルは茅沼炭鉱のさらなる可能性を見出し、積出港の整備などの改良を提案しました。茅沼炭鉱には11月4日に立ち寄ったと記録されています。

11月11日、最後の目的地、札幌に到着

11月5日:岩内→ササコヤ→ルビシビツ
11月6日:ルビシビツ(滞在)
11月7日:ルビシビツ→然別→余市
11月8日:余市→忍路→小樽
11月9日:小樽→熊石
11月10日:熊石→銭函
11月11日:銭函→札幌

建物と門が写ったモノクロ写真。

アンチセルが到着した当時の開拓使札幌本庁(出典:北海道大学附属図書館 北方資料データベース)

アンチセルは、岩内を出発して余市、小樽を経由、明治4年(1871年)11月11日にとうとう札幌に到着しました。一行が函館を出発してからここまで30日余りの旅でした。その後も、アンチセルが札幌近辺を視察した記録が残っていますが、旅の足取りを追うのは一旦ここまでとしましょう。

ところで、鹿部から室蘭回りルートをとったワーフィールドは、アンチセルよりも早く札幌にたどり着いていました。この視察の結果、ワーフィールドは室蘭から札幌へのルートを優先して拓くよう進言しています。札幌への経路を、小樽回りにするか、室蘭回りにするかの議論は、すでにこの頃からあったようです。

ちなみに、実はまだ当時、北海道の中心をどこに置くかの議論は定まっていませんでした。アンチセルはこのときの視察から、札幌は寒すぎて中心都市にふさわしくないのでは、という考えを書き記しています。それから150年余り経過した現在の札幌を考えると、幸いにもアンチセルの懸念は当たらなかったようです。

「北海道に培養すべきものはホップ草なり」

視察を終えたアンチセルは、その成果をレポートにまとめ、ケプロンへ提出しました。その日本語訳が「アンチセル調書」および「アンチセル氏建言畧(りゃく)」などに残されています。内容は北海道の気候、植生、鉱物資源、物流など多岐にわたり、アンチセルの見識の広さを窺わせます。そして、そこに記されたのが冒頭の言葉です。もう少し長く引用しましょう。

「北海道に培養すべきものはホップ草なり。蝦夷の南方には天然繁生する者往々之あり。その土地には必ず培養のホップもよく繁茂仕べく候」

つまり、北海道ではホップを育てるべきである、北海道の南部には野生のホップがしばしば繁殖しており、栽培されたホップもよく育つだろう、と述べています。アンチセルは、函館から札幌まで、北海道の南部を歩く中で、あちこちに自生するホップを目にしたのでしょう。その後、北海道がホップの代表的な産地のひとつとなったことからも、このアンチセルの見通しが確かだったことは間違いありません。

「麦酒を醸成するに足り申べく候」

アンチセルによるホップ栽培の提言には続きがあります。

「尤も天然生のものも麦酒を醸成するに足り申べくと奉存候。20ポンドより25ポンド迄ホップを此表へ取寄相成候はば横濱にて一人の醸酒家を雇い、用に適するや否やを試み申すべく候」

発見した野生ホップは十分にビール醸造に使えるであろう見通しを述べ、横浜での試験醸造を提案しています。この報告を受けて、実際に何度かホップの採取を試みた記録が残っています。

自生するホップを用いたビール醸造の試み

視察翌年の明治5年(1872年)9月に、開拓使の東京出張所から札幌に対して、ホップを試験用に採取するよう依頼が出されています。このときのホップは、札幌元村(現在の札幌市東区、元町付近)や豊平川付近で採取されたと記されています。しかし量も少なく、採取時期も良くなかったため「色変り切り、能なく」、結局ビールの醸造には使えなかったようです。

そのため、翌明治6年(1873年)、もう一度ビール醸造に挑もうと、ふたたび採取の依頼がありました。このときは、おそらくアンチセルによると思われる詳細な採取・加工・輸送の指示が添えられ、さらに採取地として岩内ホリカップが指定されました。これは前述の茅沼炭鉱にほど近い堀株村(現在の泊村堀株村)か、堀株川周辺(現在の共和町)ではないかと考えられます。しかしその後、ビール醸造に成功したという記録は見当たらないので、このときも残念ながら、ビール醸造はうまくはいかなかったのかもしれません。

翌年、次のホップの季節を迎える前に、アンチセルは開拓使を離れました。

日本産ホップの歴史を拓いたアンチセル

北海道に自生していたホップによるビール醸造は成功しませんでした。しかしここから、北海道でのホップ栽培、札幌での開拓使麦酒醸造所へとつながっていきます。アンチセルの残した30日間の足跡と、「北海道に培養すべきものはホップ草なり」の言葉は、日本のビール産業と日本産ホップにとって、非常に大きな意味を持つ出発点となったのです。

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気象予報士 / 気象データアナリスト

ホップ畑を訪れ、その景色に感動!ぜひ多くの人にホップのことを知っていただき、ビールをもっと楽しんでいただけたらと活動中。北海道出身。子供の頃に暮らしていた場所はかつてホップ畑が点在するエリアだったそうで、そこから国内のホップの歴史にも興味を持つ。ホップと気象の関係から何かおもしろいことを見つけるのが目下の目論見。

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