ルイス・ボーマーによる野生ホップ栽培の試み
明治時代に、北海道でホップを発見した人物は誰でしょう?詳しい方であれば、トーマス・アンチセルの名前をご存知かもしれません。アンチセルは明治4年(1871年)に北海道南部を視察し、ホップを発見しました。そして、その3年後に北海道の南部から東部にかけての植生を調査し、日高地方でもホップが自生していることを報告したのがルイス・ボーマーです。さらに彼は、札幌市内で野生ホップの栽培も試みています。そんなボーマーの功績を追ってみましょう。
トーマス・アンチセルによるホップの発見については、こちらの記事もご覧ください。
日本産ホップの歴史を拓いたトーマス・アンチセルの足跡をたどる
なお、ルイス・ボーマーのカナ表記は「ルイス・ボーマー」「ルイス・ベーマー」「ルイス・ベーマル」などいくつかありますが、本記事では当時の資料に多く見られる「ルイス・ボーマー」を採用します。
Contents
ルイス・ボーマーの来日
明治2年(1869年)、明治政府は北海道の開拓や産業の近代化のため、北海道開拓使を設置しました。開拓使の顧問として招かれた当時のアメリカ農務長官ホーレス・ケプロンは、各国から様々な分野の専門家を招聘し、北海道の農業の近代化、近代的産業の導入に尽力します。その時に招聘された技術者の一人がルイス・ボーマーです。
ボーマーは1843年に、現在のドイツにあたる町に生まれました。ドイツでは園芸に携わり、その後アメリカに渡ってニューヨークで造園家として活躍します。開拓使には旧暦明治4年(1872年)に雇い入れられ、開拓使直轄の農業試験場である東京官園で、果樹や園芸の技術者として働き始めました。東京官園は、現在の青山学院大学青山キャンパス(東京都渋谷区渋谷)にあたり、海外から国内へ様々な農業品種を移し入れるにあたっての最初の受け入れ地でした。たとえばリンゴはボーマーがここで扱った作物の一つで、のちに北海道をはじめ各地に定着しました。札幌市豊平区の平岸に今も残るリンゴ並木も、元をたどるとこのときのボーマーの功績までさかのぼります。
ボーマーが日高地方に自生するホップを報告
明治7年(1874年)、ケプロンから北海道の植生を調査するよう依頼を受けたボーマーは、東京から函館へと渡ります。7月4日に函館を出発し、噴火湾沿いを森、山越と北上しました。長万部からは小樽廻りルートをとり、黒松内、岩内に至ります。そこからさらに積丹半島を海岸沿いに巡って余市に至り、小樽を経て、7月28日に札幌に到着しました。
ボーマーは札幌にしばらく滞在したのち、8月10日に札幌を発って南下し、千歳、勇払を経由して、日高地方の沙流に8月20日に到着しました。ボーマーはここでもホップが自生していることを確認し、その時の様子を以下のようにケプロンへ報告しています。
沙流の周辺にはアイヌの主要な集落がある。7つの村からなり、住民はおよそ500名。おもに漁労と狩猟を生業としているが、川岸の肥沃な土地には耕作や園芸の様子も見られる。キビや豆が主要な作物である。そのような土地には野生のホップもよく見られる。海外品種とも非常によく似ており、栽培により改良できると考えられる。海外品種を移し入れた場合も、適切な指導の下で栽培に注力できれば、収益性の高い作物として間違いなく成功するであろう。
(REPORTS AND OFFICIAL LETTERS TO THE KAITAKUSHI, Report of a Botanical Journey in Yesso by Louis Bohmer より 筆者日本語訳)
こうして、アンチセルがホップを発見してから3年、ボーマーにより再びホップの存在が報告されました。ボーマーもアンチセルと同様に、北海道がホップ栽培の適地であること、海外品種を移し入れてもよく育つであろうことを指摘しています。この報告はケプロンを経て、当時の開拓使長官である黒田清隆にも届いています。
ボーマーはさらに東へと旅を進め、厚岸で折り返して札幌へ戻りました。ボーマーは道中で採集した植物の標本を作成し、各所に預けていました。帰路はこの標本を回収しながら、来たときと同じ経路で札幌へと戻ったようです。この時の標本にホップが含まれていたという記録は、残念ながら見当たりませんでした。
野生ホップの栽培化の試み
北海道の視察を終えたボーマーは東京へと戻りましたが、後に札幌に赴任することになり、明治9年(1876年)に再び北海道へ渡ります。札幌に居を構えたボーマーは同年9月27日、開拓使に対して「住居周辺の土地にホップ植付許可願 」という届を出し、自身の住む官舎の周囲でホップとブドウを育てようと試みます。
私たちの官舎の周辺の土地で、野生ホップとブドウを栽培することをご提案します。
(住居周辺の土地にホップ植付許可願 より 筆者日本語訳)
続けて、2週間後の10月9日には「園芸課用に野生ホップ、山梨、堆積落葉、肥沃土壌、馬糞、むしろ等供給依頼」を届け出て、札幌周辺で野生ホップを集めるよう依頼しています。
ホップの雌花をおよそ500個集めます。札幌周辺の小川に多く見られるため、3名いれば短時間で集められるでしょう。
(園芸課用に野生ホップ、山梨、堆積落葉、肥沃土壌、馬糞、むしろ等供給依頼 より 筆者日本語訳)
届に「多く見られる (plenty are found)」と書かれていることからも、当時の札幌にはあちこちにホップが自生していたのでしょう。明治7年(1874年)にアンチセルが横浜にホップを取り寄せた際、札幌市内の豊平川周辺でホップを採取したという記録とも一致します。
こうしたホップ栽培のための土地確保と、野生ホップの収穫は、時期が非常に近いことからも、互いに関連すると考えて差し支えないでしょう。実は原文は、Female Hop を集めるようにという依頼です。しかし、それが雌株なのか雌花なのか、表記だけからはわかりません。短時間で500個を集められるという規模から考えて、掘り起こす必要のある雌株ではなく、摘み取ることのできる雌花を指す可能性が高いと考え、ここでは雌花と訳出しました。当時はまだ雄株と雌株は混在していましたし、10月という時期からも、ホップの毬花は十分に成熟していたはずです。もしこの推測が正しかったとすると、このときに栽培が試みられた野生ホップは、根茎ではなく採取した種子から育てられた可能性も考えられそうです。
ホップ苗の輸入と海外品種定着の努力
ボーマーは野生ホップの栽培化と同時に、海外品種の定着にも尽力しました。上で述べた「住居周辺の土地にホップ植付許可願 」では、野生ホップとあわせてヨーロッパ産ホップを植え付ける場所の確保も依頼しています。
その近くの、現在は芋畑になっている場所に、今秋に東京から届く予定のヨーロッパ産のホップを植え付けたい
(住居周辺の土地にホップ植付許可願 より 筆者日本語訳)
時期は少し戻りますが、北海道に渡る前年の明治8年(1875年)、ボーマーはイギリスからホップの輸入を試みて失敗しています。ホップの根茎を東京に取り寄せたのですが、届いたときには枯れてしまっていて、芽が出る状態ではなかったと書き記しています。そして、輸送途中に赤道を経由するために環境変化が厳しいヨーロッパからではなく、太平洋経由のアメリカから根茎を輸入すること、ヨーロッパからは環境変化に強い種子の状態で輸入することを提案していました。
さらに明治10年(1877年)には、当時準備していたホップ株だけではビールの醸造に足りないので、アメリカからホップ5,000株を至急輸入するよう提案します。残念ながら札幌到着がその年の植え付け時期に間に合いませんでしたが、札幌にあった株(おそらくドイツ品種)を株分けし、なんとか1,000株は確保したようです。
ボーマーによる北海道野生ホップの評価
明治11年(1878年)10月、ボーマーは自身が栽培したホップについて記した「アメリカ産、ドイツ産および北海道野生ホップの比較試験」という報告書を提出しています。
輸入品種と比較すると、北海道の野生ホップは品質に劣り、花の時期も遅い。栽培により改善の余地はあるかもしれないが、今のところまだ好ましい結果は得られていません。
(アメリカ産、ドイツ産および北海道野生ホップの比較試験 より 筆者日本語訳)
残念ながら、北海道の野生ホップは輸入品種を上回る結果にはならなかったようです。一方で、アメリカ品種、ドイツ品種は2年目ながら良い結果を残しました。
アメリカやドイツから輸入したホップの苗は、これまでのところ北海道でとても順調に育っています。
(アメリカ産、ドイツ産および北海道野生ホップの比較試験 より 筆者日本語訳)
このことから、北海道はホップの栽培適地であろうという、ボーマーとアンチセル双方の見通しは正しかったことが実証されました。
しかし、野生ホップを栽培化する試みは、その後もなかなかうまくは行かず、数年後に断念した様子が開拓使第五期報告書に記されています。文中の「葎草」はホップを指します。
十年中地理課構内に野生の葡萄及葎草を試植し爾来年々これを栽培するについに其の功を見るなく到底繁茂期すべからざるを以て本年五月各十株を勧業課育種場に移植し余はことごとく廃棄せり
(開拓使第五期報告書より)
北海道がホップの産地へ
残念ながら、野生ホップの栽培化の試みは実りませんでした。しかし、ボーマーの尽力により、北海道でホップを栽培する道筋は開かれました。これより、札幌中心部の官園を皮切りに、苗穂(現在の札幌市東区)、菊水(現在の札幌市白石区)へとホップの栽培が広がりました。アンチセルのホップ発見、ボーマーのホップ栽培の努力から140年あまりを経て、北海道は今もなお国内を代表するホップ産地の一つであり続けています。