大手ビール会社との関わりを軸に日本産ホップの歴史を紐解く
日本におけるホップの栽培はいつ頃から始まり、どのような経緯をたどってきたのでしょうか。この記事ではおよそ150年にわたる日本のホップ栽培の歴史を、国内大手ビール会社との関わりを軸に紐解いてみます。
(トップ画像出典:北海道大学附属図書館 北方資料データベース)
Contents
明治初期:野生ホップの発見と栽培の開始
日本におけるホップの歴史は、明治初期の北海道から始まっています。当時、産業の近代化を目指していた明治政府は、海外からさまざまな技術者を招聘していました。そのひとり、アイルランド出身の化学者・地質学者トーマス・アンチセルは、明治4年(1871年)、北海道の地質・植生調査のために函館から札幌までおよそ1ヵ月かけて視察を行い、その道中で野生のホップを確認し報告書に記しています。これが日本で初めてホップの存在を記録したとされる文書です。
その後、明治7年(1874年)にルイス・ボーマーによって北海道日高地方でもホップの自生が確認されています。両名とも報告書で、北海道はホップの栽培に適した土地である、と指摘していました。これらの報告を受け、同年、ホーレス・ケプロンは当時の開拓使長官である黒田清隆にホップの栽培を進言し、開拓使の事業として取り組むこととなりました。ここに日本におけるホップ栽培の歴史がスタートします。
このときの栽培地として選ばれたのは、現在の北海道庁赤れんが庁舎にほど近い札幌市中心部の一画。当初は北海道で発見された野生種の栽培も試みられましたが、思ったような品質を確保することができず、アメリカやヨーロッパからホップ苗を輸入し栽培していました。これらのホップは、明治9年(1876年)に札幌に設立された開拓使麦酒醸造所で使用されています。開拓使麦酒醸造所は原材料の自給を目指していたので、その需要に応えるため明治10年代には札幌市内に次々とホップ園が開設されました。
明治中期〜大正:ホップ栽培の中断と再開
明治20年代に入ると原料自給の方針は一転し、ドイツから招いた醸造家マックス・ポールマンの決定により国産ホップの使用を停止しました。以降は全量をドイツなどからの輸入に頼ることとなります。このため、日本国内のホップ栽培はここで一旦途絶えてしまったのです。しかし、ポールマンが帰国した後の明治30年代、札幌麦酒は日本産ホップの使用を再開するべく札幌市内の各地でふたたびホップ園を開設します。
大正時代には、北海道以外にも産地が広がり、大正2年に大日本麦酒が長野県で、大正8年には麒麟麦酒が山梨県で、それぞれホップの栽培を始めました。北海道でも札幌市以外へと生産地が広がり、大正14年には大日本麦酒が北海道上富良野町でホップ栽培を開始しています。
昭和初期:国際情勢の変化による国内ホップ栽培の拡大
昭和に入ると、世界恐慌や満州事変などによって国際情勢は悪化し、輸入ホップの価格は高騰、ヨーロッパからの輸入も次第に難しくなっていきました。さらに、昭和12年(1936年)には日中戦争に突入し、ホップの国内自給が急務となります。同年、この状況に対応するために、麒麟麦酒が山形県、福島県でホップ栽培を開始しました。
昭和16年(1941年)には太平洋戦争の開戦を迎え、ホップの輸入はますます困難となっていきます。昭和17年(1942年)にはホップの輸入は停止し、国内自給率がほぼ100%となりますが、戦況の悪化に伴い昭和20年(1945年)にはビールの醸造自体が停止されます。食料増産のためにホップ園も一定分を残して株を破棄するよう通達が出されたところで、終戦を迎えました。
戦後:生産量の落ち込みによるアメリカからの輸入開始
終戦後は、食糧事情により食用となる作物の生産が優先されたため、ホップの生産はなかなか回復せず、昭和23年(1948年)には最盛期の1割ほどの生産量にまで落ち込みました。当初は戦中から保管されていたホップを使用してしのいでいましたが、それもやがて底をつき、昭和24年(1949年)には不足分を補うために戦後初めてアメリカからホップを輸入することとなります。
また同年、大日本麦酒が日本麦酒(現在のサッポロビール)と朝日麦酒(現在のアサヒビール)に分割され、大日本麦酒が契約していたホップ産地もこのときに日本麦酒と朝日麦酒それぞれに分割して継承されます。
昭和30年代:国内ホップ生産体制の増強
ホップの生産量は一時的に底を打ちましたが、昭和20年代後半には国内需要を満たせる量まで回復し、輸出も行われるようになりました。しかし、ビールの需要増加に伴いホップ需要もさらなる伸びを見せ、それに応えるため昭和30年代には各社ともホップのさらなる増産に力を入れます。
昭和31年(1956年)、当時ビール市場へ新たに参入した宝酒造が岩手県、群馬県でホップ生産を開始したのを皮切りに、他のビール会社も新たな地域に産地を広げ、昭和40年(1965年)までには新潟県、宮城県、秋田県、そして青森県で新たにホップの栽培が始まりました。
昭和40年代以降:ホップ生産のピークから減少へ
こうした生産拡大の努力により、昭和40年代前半に日本国内のホップ生産はピークを迎えました。その一方で、さまざまな要因からホップの生産を終了する地域もあらわれます。例えば、群馬県のケースでは、栽培契約を結んでいた宝酒造のビール撤退に伴い、昭和42年にホップの生産が途絶えました。また、札幌市では、都市化の進展により農地の維持が難しくなり、昭和50年(1975年)頃までには市内のホップ畑は姿を消しています。
なお、この頃にはホップの加工、保存技術の向上によってホップの輸入が増え、ホップ使用量に占める輸入ホップの割合が増加していきました。その後、昭和60年代には宮城県で、平成に入ってからは山梨県、長野県、福島県で、一部を除いてホップの栽培が終了しました。
現在:大手ビール会社向けのホップ栽培
このように、日本の大手ビール会社の主導によるホップ栽培は、さまざまな要因から拡大と縮小を繰り返してきました。令和3年(2021年)時点では、北海道(サッポロビール)、青森県(サッポロビール)、岩手県(アサヒビール、キリンビール、サッポロビール)、秋田県(キリンビール)、山形県(アサヒビール、キリンビール)の5道県で、大手ビール会社向けにホップ栽培が行われているという状況です。
毎年秋には、これらの地域のホップを使用した限定ビールが各社から発売されています。手に取る機会があれば、ホップ栽培の歴史も思い出してみてください。